「Two hearts」 3
厳しい人、なのだと思う。
長身の上忍の後ろ姿を見ながら、イルカが思う。
上手く避けたはずの銀髪の上忍。それが、いきなり眼の前に現れて報告書を
差し出した時は驚いた。
Bランクの任務がこの伝説の上忍に振られていた事も驚いたが、それを単日で
片づける能力にも舌を巻いた。俺なら工作期間も含め一週間は固いだろう。

言うだけの事は、ある人なのだ。
今更ながら、痛感させられた。
時に苛烈な物言いは、この実力に裏打ちされているものなのだ。ただでさえ
血生臭い忍の世界で、より深い血塗れの闇に蠢く暗部集団。
その中で、カカシの隊の生還率だけが飛びぬけて高かったと噂に聞いた。狂気の
ような殺戮と、残忍な陰謀の渦巻く世界。己一人ですら生き延びる事の難しい、
過酷極まる非情の世界。
そんな世界を、この人は自らの力で生き抜いたのだ。激しい矜持と誇りを胸に、
他者をも護り抜いのだ。

それから見りぁ、俺なんか。
溜息をついて、伝説の上忍の背中を眺める。
この人から見りゃ、俺なんか無能極まりない甘ちゃんだろう。上の指示に
右往左往した挙句、泥縄のように身の程知らずの任務の助力を申し出る。平々凡々の
経歴しか持たぬ身で、上忍すら危うい役目を任せろと言う。
思い上がるのもいい加減にしろ、と言いたいだろう。
地獄を生き抜いてきたこの上忍からすれば、俺なんかきっと一瞥する価値も無い。

レベルが、違うのだ。

イルカが眼を伏せて思う。
この人は、「忍」の高みにいる人なのだ。俺のような平凡な中忍には、想像する
事すら出来ない高みに。
厳しい人。
迂闊に近付けば、己の力不足を激しく叩きつけられるだけの、峻烈な上忍。
別世界の人だ。別世界の、激しく厳しい「忍の理想像」。
それが、この人なのだ。

長身の上忍の足がふと止まる。
硝子越しに広がる夜のしじまに、銀色の髪がひどく似合うと思った。
無音の犬笛が、受付所の空気を鋭く貫く。それで、最近いつもカカシに影のように
寄り添っている忍犬が、未だ自分の側から立ち去ってない事に気付いた。
「・・・・・」
銀髪の上忍が無言で振り向く。濃紺の眼を怪訝そうに瞬かせ、口布越しにも解る
整った薄い唇で、ゆっくりと自分の忍犬に呼びかける。
「・・・・行くよ、パックン。」







パックン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜?!?!?!?!?!






イルカが思わず鉛筆を取り落とす。
何だ!?何だ今の!?何だその愉快な響き!?パックン?パックンって??!!
ガバリと顔を上げて眼前の忍犬を見つめ直す。もしかして名前?名前か?
まさか、この忍犬の名前か?この犬、パックンて名前なのか?!?!?!?!

まじか。
口がポカンと開いてくる。
何だそのふざけた名前。パックンて。何でそんな名前忍犬につけんだ。アカデミーの
餓鬼だって付けねぇよそんなファンシーな名前。もっとあんだろ。赤丸とか。
何かそれらしい名前が。
何だパックンて。何でそんなゆるゆるな名前だ。本気か。
この男が。「忍の理想」みたいなこの男が、自分の狗にパックン…。



あ、いかん。



ひくり、と震える口元をイルカが必死に引き戻す。
いかん。やばい。ツボにハマってしまった。
急激に喉に競り上がってくる笑いを、死ぬ思いで押さえ込む。笑ったら終わりだ。
この厳しい上忍の前で吹き出すなんて、絶対駄目だ。殺されるぞ。今までの事を
忘れたのか。今までの事を、思い出せ。
そう必死に自分を律しようとした
が、そうすればそうするほど、逆に笑いの塊が腹から突き上げてくる。
パックン。狗の名前がパックン。

「正直、あんたにそんな芸当ができるとは思えないね。」俺の犬の名前はパックンだけど。
「俺の任務はあんたが思うようなもんじゃないんだよ。」犬の名前はパックンだけど。
「あんたは駆け出しの下忍同然なんですよ。」まあ俺は犬にパックンて名前付けるけど。

思い出す言葉言葉に、聞いてもいないカカシのセリフが続く。しっかりしろ。カカシさん
そんな事言ってねーだろ。そう自分を叱りながらも、こみ上げる笑いに拳がブルブルと
震える。口元を固く引き攣らせながら思った。耐えろ。もう少しだけ、耐えるんだ。
カカシさんが部屋を出てくまで。
それまで、何とか耐えるんだ。




何をやっとるんじゃ。この男は。
狗が訝しげにイルカを見上げる。さっきまで静かに眼を伏せていたかと思ったら、
急にブルブルと小刻みに震えだした。眦の赤く染まった顔を下に向け、痙攣する唇を
必死の形相で押さえつけている。
・・・・・・。
何を意味する動作かは分る。これは、人間が笑いを堪えている時の仕草だ。
が、その理由が分らない。
…何じゃ。何か、あっただろうか。
狗が自分の記憶を探る。突然、ピン、と来るものがあった。
…もしや、この男…。
閃くものはあったが、確信が持てない。確信どころか、自信すらない。
今迄の主とこの中忍の関係を思うと、そんな理由でここまで笑えるものだろうか。
狗が首を振って考える。
が、もしその推測が合っていれば、自分がこの状況をひっくり返す事が出来るかもしれない。

振り返って主の姿を眺めた。主は困惑した顔で立っていた。あの時のように。
幼いカカシに、もうサクモは帰ってこないと告げた時のように。自分は真に主を守る事は
出来なかったのだと、思い知らされた時のように。
忍獣は契約で縛られる。勝手な言動は許されない。巻物には、その為の術が封じられてる。
禁を犯せば、巻物自体が音を立てて発火する。
既に自分は二度も主の呼びかけを無視している。
この上主の指示に背けば、いつ巻物が燃え上がっても不思議は無い。




けれど。




けれど自分は、犬なのだ。
どうして主を助けずにいられよう。
それが、犬の性だ。それが、巻物に縛られる遥か前から、自分を形作っていたものだ。
狗の誇りは、巻物の上にくるものだ。
主の為に生きられぬなら、狗の魂は死んだも同じだ。
主の求めるものを差し出してこそ、狗の誇りは護られる。


主の視線を振り切り、くるりと身体を反転させた。
筋肉の張り詰めた後脚で床を蹴り上げ、二人の忍の頭上高く跳躍する。受付の
机の上にドサリと降り立ち、全身で前脚を大きく振り上げる。ダン!と短い両脚を
力強く机上に打ち付け、驚くイルカに向かって、つぶらな瞳で一言言う。



「わし、パックン。」



「うわっはははははははははは!!!!!!」
イルカがのけぞって大爆笑する。
「…パッ、パック…!す、すいませ…笑ったりし…パ、パック…も、申し訳っ…っ!」
イルカがまたぶはっと吹き出す。すみませ、と痙攣した声で机に突っ伏し、必死に
笑いを隠そうともがく。
「いや。笑っていいぞ。わしもそう思う。カカシのネーミングセンスは最悪じゃ。」
狗が大きく頷いて言う。
「これでも、以前はもっとかっこいい名前だったのじゃ。それが、こやつが主に
なってから…」
やりきれない、といった風情で狗がぶるぶると首を振る。
「「敵をぱっくんって噛むから」って、なに見たまんまつけとるんじゃ。わしは
初代火影が直々に捕えた名獣じゃぞ。こやつの恩師が遠慮しいしい「カカシ、
その名前はどうかな?」と言っとるのに、「これでいい」の一点張りじゃ。
下手くそな字で『パックン』とがっつり巻物に書きおって。」
「そ、そうなんだ…そ、そりゃまた…」
ひいひい笑いながらイルカが相槌を打つ。
「他の忍犬達も似たり寄ったりじゃ。モックン、カックン、ミーくん…由来
聞いてみろ。全部しょうもないから。」
ええ?という顔で主人を見上げていた仲間達の顔を思い出しながら狗が言う。
「大体、カカシは何にでも名前をつけたがるのじゃ。子供の頃から、こんな感じで
気取っとって、友達が誰もいなくてな。代わりに周り中の生き物を『おともだち』に
してた癖が、未だに抜けないのじゃ。いい年して、火影から賜った苗木の鉢植えに
「ウッキーくん」とか大書してるのを見た時には、眩暈がしたわい。行って見て
くるがいい。まだ生えとるから。」
ウッキーくん!とイルカがまた腹を抱えて笑う。張りのある明るい声が、朗らかに
受付中に響きわたる。眼を細めて思った。



やさしい、男なのだ。



この男は、優しい男なのだ。
自分に厳しく当るばかりの上官。顔を合わせれば、強烈な叱責ばかり叩きつけてくる男。
その厳しい男の犬の名が、思いがけず愛嬌あるものであった事に、声を立てて
笑うような、明るく、優しい男なのだ。
人の心が一面だけで無かった事を。その裏側に、愛すべき可笑しみがあった事を。
それを、声を立てて喜ぶような、明るく優しい男なのだ。


くるりと主を振り返った。
主は呆然と自分達を眺めていた。忍犬が自分の過去をべらべら喋り、それにイルカが
大爆笑している、という眼の前の光景に、思考停止状態になっているらしい。
「カカシ」
固まる主に向かって呼びかける。
「・・・・・・・なに?」
カカシが一つきりの右眼を瞬かせて、ようやく返事をする。万感の思いを込めて、
その眼に告げた。




「優しい男ではないか。」




お前が愛した男は、優しい男ではないか。
恐れる必要も、怖がる必要もない、優しい男ではないか。


何を、恐れる必要がある。


こうして眼の前で、笑っているではないか。
踏み出せば、こうして笑う男ではないか。

優しい男ではないか。

お前にふさわしい、男ではないか。
失い続けて来たお前が、一歩を踏み出すにふさわしい、優しい、優しい男ではないか。




カカシの眼が大きく開く。
二度の禁を犯してまで、忍獣が自分に伝えた言葉。それを反芻するように、濃紺の
瞳で忍犬の姿をじっと見つめる。
やがて、カカシがゆっくりと歩き出した。もう一度受付の机の前に戻り、未だ目尻に
涙の浮かぶイルカの真正面に立つ。
「・・・・あの・・・」
ハッと顔を引き攣らせて見上げるイルカに、銀色の髪をボリボリ掻きながら話し掛ける。
「さっきの…、本当に、見に来ませんか。俺の家に、見に来ませんか。」
「…え?」
「夜間当番終わった後…、一緒に…」
大きな手がぐっと握りしめられる。ついに口から放たれた言葉が、静かな部屋に
はっきりと響く。


「俺と、飯でも食いに行きませんか。」




「・・・・・・。」
イルカがパチパチと瞬きしてカカシを見上げる。
やれやれ、やっと言ったな。狗が息を吐いて思う。
「…え。あ、ええと…」
イルカが焦った様子でキョロキョロと視線を彷徨わす。当番を替ってもらってまで避けた上忍。
その上忍に、直接飯に行こうと誘われる。このまさかの展開に、動揺を隠しきれない様子だ。
「いい店があるんです。そこ、遅くまでやってるし…ずっと、一緒に行ければと
思ってて…。…もし面倒なら、買ってってもいいし…駄目なら、軽く寄るだけでも…」
いつもと全く違う、訥々とした口調で誘うカカシに、イルカが眼を丸く見開く。そして、一層困った様子で視線を泳がせる。
「…あ…えーと、」
困惑しながらも、決定的な否定の言葉は返さない。うむ。益々良い。狗が頷く。
お人好しだ。優しい上に、お人好しだ。
あんなに嫌がっていた男を、即座に断る事ができない。たった今見せられた
カカシの裏側に、そうすることが出来ないのだ。

イルカの中で、カカシが変わってしまったのだ。
孤高の上忍然としながら、部屋の観葉植物に「ウッキーくん」などと名付ける男に。
毅然と忍の在り方を説きながら、自分の忍犬全てに幼稚で緩い名前を付ける男に。
聞いてる方がハラハラするような、とつとつと拙い口調で自分を誘う男に。
そんなカカシを、すぐに断る事が出来ないのだ。

それは、「写輪眼のカカシ」ではないからだ。「はたけカカシ」だからだ。
里に名高い天才上忍なら断れても、「はたけカカシ」は断り難いのだ。
「はたけカカシ」は、不器用そうな男だからだ。
中忍の自分を、緊張しながら誘うような、不器用な男だからだ。
きっと、この優しい、お人好しの中忍には分るのだ。
自分が断れば、その不器用な男は傷つくと。
「写輪眼のカカシ」の裏側にいた、一人の人間が。遠い昔に放り投げられたきりだった、
カカシの半身が。
「はたけカカシ」が、傷つくと分るのだ。


イルカが鼻の頭をポリポリ掻く。
何かを考えるように暫く沈黙した後、ゆっくりと、覚悟の決まった顔でカカシを見上げる。
主の心音が跳ね上がる。清潔に引き締まったイルカの唇が、眼の前で明るく綻んでいく。


「ありがとうございます。喜んで、お付き合いさせて頂きます。」


主の心臓に、一気に血液が流れ込む音がした。
「あ、そう。そうですか。そりゃ、どーも。」
銀色の頭を激しく掻きつつ、上ずった早口で礼を言う。
「俺の当番終了まで後一時間かかるんですが、すみません、それまでお待ち頂けますか?」
「あ。うん。勿論。勿論いいよ。俺もやる事あるし。店の予約とか、やる事あるし、あるから」
自分でも何を言ってるか分らない、という風情で、主が乱れまくった返事をする。
「はい。それでは。」
イルカがにっこりと主に微笑む。その優しげな笑顔に、主の身体がくにゃくにゃと
溶けそうになる。
「うん。」
目尻を赤く染めて頷き、ふわふわと雲の上を歩くような足取りで隣の待合室に向かう。
その後を、尻尾を振りながら付いて行った。



店の予約を終えた主が、天井を見上げてなにやら物思いに耽っている。
「カカシ」
「なに?パックン」
上機嫌で振り向く主に向かって言った。

「それはまだ、早いのではないか?初めて家に来たくらいで、そこまで進展せんじゃろう。」


「!!!!え、な、なんのこと??!!」
主が動揺して叫ぶ。
「べ、別に俺はそんなコトしようなんて思ってもなーいね!!何言ってんのお前?!」
嘘付け。狗が鼻を鳴らして思う。人間は誤魔化せても、このわしが誤魔化させるか。
さっきからカカシから立ち上っている、甘く熱のある香り。これはカカシの
「フェロモン」だ。意中の相手を、身体ごと手に入れようとする者の。その熱で、
相手を誑かそうとする者の、甘く濃密な欲望の匂い。
カカシの、欲望の匂いだ。

…全く、気が早い。
狗が大きく溜息をつく。何を舞い上がっておるんじゃ。まだ、やっと食事に誘えた
だけだと言うのに。しかも、あの中忍は男だ。そこらのくの一ならともかく、
それくらいでカカシを「恋の相手」と意識するはずが無い。
道のりは険しいのだ。びっくりするほど、険しいのだ。

が、そうでもない気もするのだ。

狗が垂れた顎を傾げて思う。
何となく、そうでも無い気がするのだ。カカシの家にイルカが行ったら。
カカシが口布を取り、その驚くほど繊細な面差しを見たら。
部屋のそこかしこに残る、拙い文字で書き散らされた名札を見たら。
それが、父も母もいない家で、残された子供が一人、寂しさを堪えて書いていた
ものと知ったら。
あの中忍は、何かを感じる気がするのだ。
カカシの中の何かに、心を強く動かされる気がするのだ。


今度こそ、自分の役目も終わりだ。
狗が深々と深呼吸する。幸い巻物も無事だった。直ぐにでも戻れる。全く疲れる
日々だった。
何となくまた呼ばれそうな嫌な予感もするが、まあ暫くは大丈夫だろう。
「カカシ、わしを巻物に戻してくれ。」
そう頼むと、カカシが、え?と不安げに顔を曇らせる。
「それだけ妄想する元気があれば、大丈夫だろう。わしは疲れた。」
だから妄想なんて!とカカシが甘い匂いを垂れ流しながら喚く。往生際の悪い
主のふくらはぎを、片方の前脚でペシリと叩いて言った。
「頑張れ。期待しとるぞ。」
カカシがちょっと沈黙する。それから、「うん」と小さく頷いた。
整った長い指が、宙に封の印を結ぶ。すうと自分の身体が軽くなった。みるみると
薄れる意識の中で、あの中忍が扉を開けた気配を感じた。夢のように霞む景色の中、
少し緊張した、上気した笑顔でカカシに近づいて行く。カカシが顔を上げ、にっこりと
イルカに振り向く。


狗の心が暖かいもので満たされていく。
二つとない光景。二つとない光景だ。
二人の心は、この世にたった二つしかない。
その二つが互いに近づいてく光景は、何と素晴らしいものだろう。
何と大事な光景だろう。
自分はそれがずっと見たかった。
主の隣に、誰かがいる光景を。誰かが、主の隣で笑っている光景を。
主がそれに、幸せそうに笑い返す光景を。



カカシの心と、イルカの心。
互いにそれを捨て去る事無く、大事に恋に落ちればいい。
互いの心を失わぬよう、愛で心を結べばいい。





(終わり)

目次

2010年カカイルアンソロ「二つしかない大事にしよう」(完売済・主催者様UPご許可済み)に参加させて頂いた作品です。
本文ほんの少し修正してあります。こんな出来ですが、読んで下さってありがとうございました。